タイタン軌道ホテル「リングビュー」の支配人、コジマは、予約画面を睨んでいた。

残り一室。スイート四〇七号室。土星の環が正面に見える、このホテルで最も高い部屋だ。一泊の料金は、地球の中堅マンションの頭金に相当する。それでも三ヶ月先まで埋まるのが普通だった。

普通、というのは去年までの話だ。

土星の環が薄くなっている。正確には、地球から見たときの傾斜角が変わって、環が横向きに見える時期に入りつつある。十五年に一度の現象で、天文学者は「環の消失」と呼ぶ。実際に消えるわけではないが、見た目はほとんど線になる。

客が減った。当然だ。「環が見える部屋」の売りが「環が線にしか見えない部屋」になれば、誰が大金を払う。コジマは料金を二割下げ、さらに三割下げ、それでもスイートだけが空いたままだった。

今夜も予約は入っていない。コジマは端末を閉じて、四〇七号室に向かった。空室の点検という名目だが、本当はこの部屋からの眺めが好きなだけだった。

窓の外に、土星があった。

薄い。環はもう針金のようだ。かつての壮麗な姿を知っている者から見れば、老いた姿に映るかもしれない。だがコジマは、この細い線を美しいと思っていた。輪郭がはっきりして、かえって構造が見える。カッシーニの間隙が一本の切れ目として浮かび上がり、環を構成する氷の粒が光の帯になっている。

「支配人」

フロント係のアオキから通信が入った。

「飛び込みのお客様です。スイート希望で」

コジマは背筋を伸ばした。「通してくれ」

ロビーに戻ると、六十代くらいの女性が立っていた。旅慣れた様子で、荷物は小さなバッグ一つだけ。

「スイート四〇七号室は空いていますか」

「はい。ただ、ご承知の通り、現在は環が——」

「薄いのは知っています。むしろそれが目的です」

コジマは言葉を止めた。

女性は窓際のソファに腰を下ろしながら言った。「四十年前に夫とここに来たんです。新婚旅行で。あの頃は環が最大に開いていて、窓いっぱいに広がっていました」

「素晴らしい時期ですね」

「ええ。でも夫は環にあまり興味がなくて。ずっと『環の隙間の方が面白い』と言っていました。間隙のところで氷の粒が少なくなる理由を、夕食の間ずっと話していて。わたしは正直うんざりしていました」

コジマは微笑んだ。「天文学がお好きだったんですね」

「好きというか、そういう人だったんです。全体より隙間を見る人。花束より包装紙の折り方を褒める人」

女性は窓の方を見た。土星の環が、細い一本の線として光っている。

「去年、亡くなりました。遺品を整理していたら、このホテルのパンフレットが出てきて。裏に赤ペンで丸がしてありました。『環の消失期にもう一度行く』と」

コジマは黙った。

「だから来ました。夫が見たがっていたものを、代わりに見に」

「……料金は、通常のスイート料金になりますが」

言いかけて、コジマは自分が何をしようとしているのか気づいた。値下げした料金ではなく、定価を請求しようとしている。環が薄いことを理由に下げた、あの料金ではなく。

女性はバッグから支払い端末を出した。「おいくらですか」

コジマは定価を言った。言ってから、すぐに訂正した。

「すみません、現在は消失期割引がございます。こちらの料金で」

値下げ後の金額を提示した。女性は少し首をかしげたが、何も言わずに支払った。

部屋に案内したあと、コジマはフロントに戻った。アオキが怪訝そうな顔をしていた。

「支配人、なんで割引にしたんですか。あのお客様、定価でも払う気でしたよね」

コジマは予約画面を開いた。明日以降のスイートの料金を、さらに下げた。消失期が終わるまでの全日程。

「環が細くなったから安くしたんじゃない」とコジマは言った。「細い環を見たい人がいると、今知ったからだ」

アオキは黙った。コジマは窓の外を見た。タイタンの向こうに、針のように細い環が光っている。

翌朝、四〇七号室の清掃に入ったスタッフが、サイドテーブルの上にメモを見つけた。女性の字で、一言だけ書いてあった。

「隙間、ちゃんと見えました」