田中というのが、なんとも生真面目な守衛で、三年間、インシデント件数をゼロに保ってきた男だ。
ビルの入り口に立ち、目つきの悪い来訪者には一声かけた。忘れ物らしき段ボールは近づいて確認し、駐輪場の怪しい影には懐中電灯を向けた。面倒な場面は、なぜかいつも田中のいるときに起きた。そして毎回、何事もなく終わった。
「今日も何もなかったですよ」と田中は引き継ぎのたびに言った。後輩には「田中さん、運がいいですね」と笑われた。田中は、まあそうかもしれないと思っていた。
四月に入って、ビルの管理会社から書面が届いた。警備業務の見直しを行った結果、田中との契約を更新しない、という内容だった。理由の欄には「業務実績の乏しさ」とあった。
つまり、インシデント件数:ゼロのことだ。
田中はしばらく、その紙を眺めた。ゼロというのが問題らしかった。何も起きなかったことが、何もしていなかった証拠として処理されたわけだ。なるほど、そういうことになるのか、と田中はうっかり納得しかけて、それから静かに首を振った。
五月の最終日、田中は守衛室の鍵を返し、後任に引き継ぎをした。後任は三十代の男で、やたらと元気がよく、「しっかりやります」と三回くらい言った。田中は「何もないといいですね」と言い残して帰った。
翌日の朝、後任は不審な人物を一人発見し、声をかけ、任意で確認したところ、無関係の通行人だったので丁寧に送り返した。後任はそれを報告書に記録した。
管理会社の課長が月末に届いた報告書を開いた。
新しい守衛の、初日の報告書だった。インシデント件数:1件。課長は太いサインを入れた。