先生の観測ノートは、三十年分あった。

一冊ずつ黒い革の表紙で、背表紙に年号が白い文字で書かれている。棚の端から順番に取り出していくと、だんだん紙が古くなって、においが変わっていった。

「距離が合ってない」

最初のほうの年のノートには、同じ文字が何度も書かれている。星の名前、観測日、光度曲線の小さなグラフ。そして、赤いペンでひとこと。距離が合ってない。

先生はハビタブルゾーンの専門家だった。学会では「狭いハビタブル派」と呼ばれていたらしい。ゾーンの定義を甘くしようとする最近の流れに反対して、内縁も外縁もうんと厳しく引いて、そこにある岩石惑星だけを本物として扱った。

だから候補の星はほとんど落選した。

「これは金星になりそう」 「これは火星になりそう」

先生はそう言っては赤ペンでバツをつける。年に何度か、いい候補が来ることもあった。そういうときだけ、私はコーヒーを持っていく役目だった。

「先生、もう少し条件、緩めませんか」

一度だけ、そう言ったことがある。内部海のある氷衛星とか、潮汐ロックで昼夜の境目だけ水が液体でいる星とか、そういう候補まで広げたほうが仕事になりますよと。

先生はコーヒーを一口すすってから、窓のほうを見た。

「わたしはね、表面に水がある星がいい。空があって、雨が降る星」

「それだと本当に少ししか見つからないですよ」

「いいの。たくさんなくても」

先生は笑った。笑うといつも、目の端にしわが寄った。

三十年の最後の年に、ひとつの候補が残った。

距離が合っていて、大気もあって、磁場もあって、自転周期も二十八時間。水が液体でいられる条件がそろっている。星の年齢は六十億年。地球より古い。生き物が進化する時間は、じゅうぶんあった。

「これにします」

先生はそう言って、赤ペンを置いた。記者会見は翌週の木曜日に決まった。

会見の日の朝、先生は事務所のソファで亡くなっていた。

机の上に、発表用の原稿が置いてあった。そのとなりに、私の知らない古い封筒があった。封筒は日焼けしていて、宛名の文字はもう薄くなっていた。

開いていいのかどうか迷ったけれど、結局は開けた。葬儀の準備もあったし、先生の家族に渡すべきものを整理する必要があった。

なかには手紙が一通と、もっと古い便箋が重ねて入っていた。手紙はご主人からのもので、四十年前の日付だった。

「きみがこの街に引っ越してきてくれて、ちょうど一年経った。春は雨がよく降る。夏は風が通って、冬は雪が少ない。この街はきみにとって、ちょうどいい場所だと思う。ぼくはこの街で、きみのハビタブルゾーンになる」

手紙はそこで終わっていた。

便箋のほうには、街の名前と、住所と、家の間取りが書いてあった。小さな家。南向きの窓。裏庭に柿の木。

私は先生が三十年かけて絞り込んだ、あの星の観測データを見直した。

大気があって、磁場があって、自転が二十八時間で、星の年齢は六十億年。

表面の気候モデルも、もう出ていた。年間降水量。夏の風向き。冬の積雪量。

先生はその数字を、手紙にある街の数字と、ひとつずつ重ねていたのだと思う。

ほしかったのは、ご主人が生きていたあの街のような場所が、宇宙のどこかにもう一度あることだった。

私はコーヒーを淹れて、椅子に座った。

星は遠くて、光が届くまでに何百年もかかる。けれど先生の探しものは、もう見つかっていた。