午前九時三十分、ダークマター調査局・銀河北部支局の職員であるモルクは、今日も管轄銀河の巡回に出かけた。
彼の仕事は単純だ。担当エリアの星々の回転速度を観測し、理論値と実測値の乖離を記録して、毎月末に報告書にまとめる。乖離が大きければ大きいほど、そのエリアにダークマターが豊富に存在する証拠になる。つまり、乖離は仕事の成果だ。
「NGC4889、外縁部の回転速度、理論値の1.7倍。良好」
モルクはクリップボードにチェックを入れた。隣の銀河へ移動する。
採用条件は厳しい。まず、光と電磁力に完全に反応しないこと。これは基礎資格だ。検出器に引っかかった時点で不採用になる。次に、重力には干渉できること。仕事にならないからだ。そして最後に、自分が実在していることを証明できなくてよいこと。これが一番の難関で、毎年多くの応募者がここで脱落する。
モルクは今年で勤続十七年になる。銀河を五百三十七個担当した。仕事は確実に成果を上げていた。
問題は月末にやってくる。
「モルク、報告書の件だが」
支局長のグレイが、通話越しに言った。
「はい。今月分を先ほど提出しました」
「うん、それなんだが」グレイは少し間を置いた。「受け取れないんだよ」
「観測できないんだ。報告書が」
モルクは黙った。
「こちら側で観測できないものは受理できないというのが規則でね。電磁波に反応しないだろ、君たちは。物理媒体で提出してもこちらから見えない」
「では、どうすれば」
「それで、財務部から監査員が行くことになった。君のところへ」
「監査員、ですか」
「うん。君が本当に仕事をしているかを、向こうの手段で確認するそうだ。もし確認できれば予算が出る」グレイは咳払いした。「私からは以上だ。失礼するよ」
通話が切れた。妙に慌ただしい切り方だった。
監査員は五分後に到着した。スーツを着た、穏やかそうな男だった。名刺には「宇宙財務省・未計上資産確認課」とあった。
「お忙しいところ、恐れ入ります」
男はそう言ってクリップボードを取り出した。モルクとまったく同じ形の、同じ銀色のクリップボードだった。
「まず確認させてください。あなたは自分をダークマター調査局の職員だと認識していますね」
「はい」
「勤続十七年、担当銀河五百三十七個」
「そのとおりです」
男はペンを走らせた。モルクはふと、男のクリップボードに書かれている項目を覗きこんだ。
対象名:モルク 推定質量:太陽質量の約 2.1×10⁹倍 観測手段:周辺の星の回転速度から逆算
「──あの」
モルクの声がかすれた。
「それは、何の書類ですか」
「分布調査ですよ」男は顔を上げずに答えた。「うちの帳簿に、宇宙の27%ぶんの『所在不明資産』がありましてね。毎年、誰がどこにいるのか、重力の痕跡から推算してまわっているんです」
モルクは自分のクリップボードを見下ろした。五百三十七個の銀河の回転速度。理論との乖離。重力レンズの歪み係数。そのすべては、そこに「何か」がいる痕跡だった。
ただし、それが自分であるとは一度も考えたことがなかった。
「あなたもです。今月から、うちの台帳に正式に計上させていただきます」男は書類にチェックを入れた。「おめでとうございます。これで、モルクさんの存在は公式に記録されました」
「公式に」
「ええ。重力観測ベースで、再現性もある。十分な証拠です」
モルクはクリップボードを取り落としそうになって、とっさに握りなおした。
「では、報告書の件は」
「ああ、それなんですがね」
男はページをめくった。
「あなたが書かれていた報告書、あれはもう不要です」
「不要」
「だってそうでしょう。ダークマターの所在を重力から割り出すのが仕事ですよね。それを我々がいまやりました。あなたの所在は、確認できました」男はにっこりと笑った。「成果そのものが台帳に載ったわけです。出力を出す必要がない」
「──待ってください。私の仕事は」
「完了しました」
「完了」
「雇用契約書の第三条をご確認ください。『担当対象の観測手段が確立された時点で、調査員の職務は終了する』とあります。おめでとうございます。本日付で退職扱いとなります」
モルクは、自分のクリップボードを見た。五百三十七個の銀河。毎月律儀に提出してきた、誰にも観測されない報告書の束。
「ちなみに、退職金は出ますか」
「残念ながら」男はすまなそうに眉を寄せた。「退職金の受け取りには、受取人が電磁波で確認可能である必要がありまして」
モルクは、今度こそクリップボードを取り落とした。重力で、ゆっくりと落ちた。
男はそれを拾い、丁寧にモルクの手に戻して、名刺をもう一枚置いた。
「再就職先としまして、弊省の臨時職員の枠がございます。お仕事は、後任の調査員の方を重力で観測していただくだけです。いかがでしょう」