小惑星に名前をつける権利は、発見者に与えられる。

篠原幸夫がその石を見つけたのは二十二年前の秋だった。長野の山奥にある民間天文台で、フィルムを現像して前夜との差分を目で追う。自動検出なんてなかった時代だ。見つけた石の仮符号をMPC(小惑星センター)に申請すると、確認の返信が一通届いた。それだけだった。

軌道が確定するまで数年かかった。その間に篠原は職を変え、妻の雅子に先立たれ、目の手術を二度した。天文台での観測は続けていたが、夜に外に出る回数は減った。

命名の権利は失効しない。発見から二十二年が経っても、2001 AK37という仮符号の石は、篠原の名前を待っていた。


膵臓だと医師に言われたのは三月の初めだった。篠原は七日間入院し、手術はせず退院した。

「やることがある」と娘の智恵に言い残して自宅に戻った。

その夜、篠原はパソコンを開いた。IAU(国際天文学連合)の命名申請フォームは英語だった。辞書を引きながら一時間かけて記入した。名前の欄に十四文字のアルファベットを打ち込み、備考にはこう書いた。

In memory of Masako Shinohara, who first taught me to look at the night sky.

送信ボタンを押した。確認メールが届いた。審査に数ヶ月かかるとあった。

篠原は画面を閉じ、台所で茶を淹れた。雅子がいた頃はいつもほうじ茶だった。今も同じものを飲んでいる。変える理由がなかった。


翌週、娘の智恵が見舞いに来た。

「お父さん、IAUから確認メール来てるけど、これ何」

「石に名前をつけた」

「石?」

「小惑星だ。二十二年前に見つけた」

智恵は父のパソコンを開いた。申請フォームの控えを見て、しばらく黙った。

「お母さんの名前じゃない」

篠原はお茶を飲んだ。

「違う」

「じゃあ誰? 雅子って書いてあるけど、お母さんは篠原雅子で……あ、旧姓?」

「読め」

智恵は備考欄を読んだ。「夜空を初めて見ることを教えてくれた人」。

「お母さんの……お母さん?」

篠原はうなずいた。

「おばあちゃんも雅子だったの?」

「お前の母さんの名前は祖母からもらった。祖母の雅子は、俺が学生の頃に星座の名前を一つずつ教えてくれた人だ」

智恵は椅子に座り直した。

「知らなかった。おばあちゃんに会ったことないし」

「お前が生まれる前に亡くなった。お前の母さんは自分の母親と同じ名前が嫌で、いつも『まーちゃん』と呼ばせていたからな」

智恵は申請フォームをもう一度見た。

「つまりお父さんは、お母さんの名前をつけたんじゃなくて」

「義母の名前をつけた。星を見ることを俺に教えた人の名前だ。結果的に同じ字になっただけだ」

篠原は茶碗を置いた。

「だが、娘がどう読んでもいい。妻の名前だと思うなら、それでもいい」

智恵は何か言いかけて、やめた。代わりにお茶を注ぎ足した。


篠原幸夫が亡くなったのは、それから七週間後だった。申請が承認されたのは、さらに四ヶ月後のことだ。

小惑星2001 AK37の正式名称は「雅子(Masako)」になった。

智恵は承認通知のメールを開いたとき、泣かなかった。代わりに、自分の母親のアルバムを押し入れから引っ張り出した。一枚だけ、祖母と母が一緒に写っている写真があった。母は三歳くらいで、祖母に抱かれて夜空を指差している。

写真の裏には、祖母の字で日付と一言が書いてあった。

「まーちゃん、オリオンを見つける」

智恵は写真を立てかけ、父のパソコンを閉じた。ほうじ茶を淹れて、窓を開けた。四月の夜風が入ってきた。

2001 AK37は今夜も太陽の周りを回っている。写真もアルバムも届かない場所で、二人分の雅子の名前を載せて。