中根さんというのが、パンにはうるさい。商店街に新しいパン屋ができると聞くと、たいていその日のうちに偵察に出かける。
その日もそうだった。「十文堂」と控えめな看板を掲げた店が、空きテナントだった場所に、ふと現れた。前日まで工事の囲いがあった気がする。どうやら本当に一夜で仕上がったらしい。
店に入って最初に引っかかったのは、新しくない、ということだった。
壁のフックの位置がやけに正確だった。トレイを置く棚は、手を伸ばすとちょうど指先に触れる角度に据えてある。メニュー表の紙が微かに色褪せていた。開店初日の店に色褪せた紙があるのは変だろう。中根さんはなんとなく気になったが、クロワッサンの匂いにつられて、まあいいかと流した。
もっとも、中根さんを一番戸惑わせたのは内装ではない。客だ。
朝八時の開店に十人ほど並んでいた。近所で見かけたことのない顔ばかりなのに、全員が常連のように振る舞っている。レジに着くなり「いつもの」と言う男がいた。バゲットを片手で受け取り、代金をちょうどで出す女がいた。店主の藤川というのがまた不思議な人で、「どうも」とだけ返す。十年来の馴染みに見えるやり取りだろう。
「あの……開店、おめでとうございます」
中根さんがつい声をかけると、藤川は手元のパン生地をたたむ手を止めずに、少しだけ笑った。
「ありがとうございます。十二回目の、ね」
聞き返そうとしたが、後ろの客が「あ、レーズン多めで」と割り込んできて、タイミングを失った。
会計を済ませて店を出る。ちなみに、と思い返すと、壁に「11」の数字がうっすら残っていたのだ。なにかの番号を剥がした跡だろうか。棚の裏にも、番号を打ち直したビスの穴が並んでいた。オーブンの取っ手は、新品の手触りではなかった。
十二回目。つまりこの店は、十一回閉じて、十二回開いている。
列に並んでいたあの人たちは、たぶん一回目から知っているのだろう。
中根さんは歩きながら、買ったばかりのクロワッサンを見下ろした。端に、小さく「12」の焼き印が押してあった。ふと振り返ると、十文堂の前の行列は、さっきよりも少しだけ長くなっていた。