「渡航目的は」

カウンターの向こうで、審査官のモリタが言った。背筋をぴんと伸ばし、手元のタブレットに目を落としている。

「えっと、月面基地の設営作業です」

宇宙飛行士のクサカベは、36時間の飛行で疲弊した顔のまま答えた。ヘルメットを脇に抱え、着陸船のハッチをくぐったばかりだった。

「設営。業務渡航ですね。Bフォームの提出は」

「Bフォーム?」

「月面業務渡航申請書Bです。NASAのサイトからダウンロードできます」

「いや、聞いてないですよ。ヒューストンからは何も」

モリタはタブレットをくるりと回して画面を見せた。そこには太字で「Bフォーム未提出の渡航者は入域を認めない」と書かれていた。文字の下に、去年の日付の署名がある。

「これ、私が赴任する前にできた規則ですね」

クサカベは目をこすった。38万キロ飛んできて、書類で止められるとは思わなかった。

「では一旦こちらで待機していただけますか。申請は地球のサーバー経由になりますので、往復の通信遅延を含めて最短で…」

モリタがタブレットをスクロールした。

「3営業日です」

「3営業日? 月に3日いろってことですか」

「いえ、地球の営業日です。土日は地球のサーバーが定期メンテナンスに入りますので。今日は木曜ですから、最短で来週の火曜になります」

クサカベは天井を見上げた。月面基地の天井は低い。圧迫感がすごい。

「あの、酸素は」

「待機エリアの酸素は1日あたり200リットルまで支給されます。超過分は有料です」

「有料」

「1リットルあたり12ドルです。カード払いのみ」

クサカベは財布を探った。そもそも宇宙服に財布を入れるポケットがない。

モリタはカウンターの下から紙の束を取り出した。ホチキスで留めた20枚ほどの書類だ。

「こちら、酸素超過利用申請書です。記入後、地球の経理部門に送信して承認を得てください」

「それも3営業日?」

「いえ、酸素に関しては緊急扱いになりますので、最短で1営業日です」

クサカベはヘルメットをカウンターに置いた。ゴトッと低重力特有の軽い音がした。

「モリタさん、ちなみにこの基地にいま何人いるんですか」

「私ひとりです」

「あなたひとり」

「はい。先月まで3人いましたが、2人は帰還フォームの承認待ちで動けなくなり、最終的に特別措置で脱出ポッドで帰りました」

沈黙が流れた。月面基地の空調がかすかに唸っている。

「…その2人の帰還フォーム、まだ承認されてないんですか」

「はい。ですがご安心ください。肉体は地球に戻っていますので、書類上の問題です」

クサカベはゆっくり椅子に座った。低重力のせいで、座るという動作にも妙にコツがいる。

「ひとつ聞いていいですか」

「どうぞ」

「モリタさんは、どうやってここに来たんですか。Bフォーム、出したんですか」

モリタの手が一瞬止まった。

それからタブレットをそっと裏返し、小さな声で言った。

「…実は、まだ承認待ちです」